2014年 09月 19日
「長谷寺」拝観の帰途、近くの「室生寺」に立ち寄った。 ここは「女人高野」の別名で有名となった寺であるが、「長谷寺」同様「山の寺」であり階段の多いのには閉口した。(笑) 寺の成り立ちなどはリーフレットよりもWikipediaのほうが詳細に書かれているので、また借用の仕儀となった。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 「室生寺(むろうじ)」は、奈良県宇陀市にある真言宗室生寺派大本山の寺院。山号を宀一山(べんいちさん)と号する。開基(創立者)は賢憬(賢璟)、本尊は釈迦如来である。奈良盆地の東方、三重県境に近い室生の地にある山岳寺院である。宇陀川の支流室生川の北岸にある室生山の山麓から中腹に堂塔が散在する。平安時代前期の建築や仏像を伝え、境内はシャクナゲの名所としても知られる。女人禁制だった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから「女人高野」の別名がある。なお、山号の「宀一」は「室」のうかんむりと「生」の最後の一画だという。仏塔古寺十八尊第十八番。 天武天皇9年(680年)、役小角(役行者)の草創、空海の中興という伝承もあるが、記録で確認できる限りでは、奈良時代最末期の草創と思われる。室生寺の東方約1キロのところには竜神を祀る室生竜穴(りゅうけつ)神社があるが、室生寺の草創にも竜神が関係している。 『続日本紀』や『宀一山年分度者奏状』(べんいちさんねんぶんどしゃそうじょう)によると、奈良時代末期の宝亀年間(770年-781年)、時の東宮・山部親王(のちの桓武天皇)の病気平癒のため、室生の地において延寿の法を修したところ、竜神の力で見事に回復したので、興福寺の僧・賢憬(賢璟)が朝廷の命でここに寺院を造ることになったという。賢璟は延暦12年(793年)没しており、造営は同じ興福寺の僧である弟子の修円に引き継がれた。修円は承和2年(835年)に没しているが、現存の室生寺の堂塔のうち、この時期(9世紀前半)にまでさかのぼると見られるのは五重塔のみであり、現在のような伽藍が整うまでには相当の年数を要したものと思われる。 草創にかかわった2人の人物が興福寺僧であった関係から、室生寺は長らく興福寺との関係が深かったが、時代は下って江戸時代の元禄11年(1698年)、興福寺の法相宗から独立して、真言宗寺院となった。女人の入山が許されたことから「女人高野」と呼ばれ、これは室生寺の代名詞にもなっている。近世には5代将軍徳川綱吉の母桂昌院の寄進で堂塔が修理されている。 1964年には真言宗豊山派から独立し、真言宗室生寺派の大本山となった。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ SONY α57 / TAMRON SP AF17-50mm F/2.8 門前町も鄙びた雰囲気が心地よい 境内への入り口となる「太鼓橋」 朱塗りの橋を渡り終えると「本坊」があり、右手へ折れて「仁王門」へ 「仁王門」を潜って少し進むと「鎧坂(よろいざか)」と呼ばれる石段となる。変わった名前であるが、坂の上から石段を見下ろすと鎧(よろい)のように重なってみえることから名付けられたらしい。 登ったところにある「金堂」 「金堂」平安時代初期<国宝>は正面側面ともに五間の単層寄棟造り柿葺。内陣には堂々とした一木造の御本尊・釈迦如来像(平安初期・国宝)を中心に、向かって右側に薬師如来像(平安初期・重文)、地蔵菩薩像(平安時代・重文)、左側に文殊菩薩像(平安初期・重文)、十一面観音菩薩像(平安初期・国宝)の各像が並び、その前に運慶の作と伝えられる十二神将像(鎌倉時代・重文)が一列に並べられている。本尊の背後の板壁には珍しい帝釈天曼荼羅図(平安初期・国宝)が描かれている。(以上、リーフレットより) 「金堂」の左側から石段を上り、さらに奥へ進む(登る?)と「本堂」へ行き着く。 静かな佇まいにしばらく見とれてしまった。 「本堂(灌頂堂)」鎌倉時代<国宝>入母屋造、檜皮葺き。桁行5間、梁間5間。室生寺の密教化が進んでいた鎌倉時代後期、延慶元年(1308年)の建立。梁間5間のうち、手前2間を外陣、奥の3間を内陣とする。この堂は灌頂堂(かんじょうどう)とも称され、灌頂という密教儀式を行うための堂である。内陣中央の厨子には如意輪観音坐像(重文)を安置し、その手前左右の壁には両界曼荼羅(金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅)を向かい合わせに掛け、灌頂堂としての形式を保持している。正面は5間とも和様の蔀戸(しとみど)とするが、両側面の前方2間は桟唐戸とする。桟唐戸の使用や、頭貫の木鼻などに大仏様(だいぶつよう)の要素がみられる。(以上、Wikipediaより) 「本堂」左側からさらに石段を上ったところにある「五重塔」 「五重塔」平安時代初期<国宝> 800年頃の建立で、木部を朱塗りとする。屋外にある木造五重塔としては、法隆寺塔に次ぎわが国で2番目に古く、国宝・重要文化財指定の木造五重塔で屋外にあるものとしては日本最小である。高さは16メートル強、初重は1辺の長さ2.5メートルの小型の塔で、高さは興福寺五重塔の3分の1ほどである。 通常の五重塔は、初重から1番上の5重目へ向けて屋根の出が逓減(次第に小さくなる)されるが、この塔は屋根の逓減率が低く、1重目と5重目の屋根の大きさがあまり変わらない。その他、全体に屋根の出が深く、厚みがあること、屋根勾配が緩いこと、小規模な塔の割に太い柱を使用していることなどが特色である。屋根の大きさが1重目と5重目とで変わらないのに対し、塔身は上へ行くにしたがって細くなり、5重目の一辺は1重目の6割になっている。しかし、斗(ます)、肘木などの組物の大きさは同じなので、5重目では組物と組物の間隔が非常に狭くなっている。側柱(外面の柱)の径は1重目が28センチ、2重目以上が23センチである。日本の他の仏塔では、最上部の九輪の上に「水煙(すいえん)」という飾りが付くが、この塔では水煙の代わりに宝瓶(ほうびょう)と称する壺状のものがあり、その上に八角形の宝蓋(ほうがい)という傘状のものが乗っている珍しい形式である。寺伝では、創建にかかわった僧侶修円がこの宝瓶に室生の竜神を封じ込めたとされる。(以上、Wikipediaより) この上に「奥の院」があるが、さすがに上る元気もなく、海外の若い観光客たちが元気いっぱいで降りてくる姿を横目に帰途に就いた次第である。 したがって、「龍穴神社」も寄らずに帰ってきたことは、思い起すと甚だ残念である。 ※各画像はクリックで拡大、再クリックで元に戻ります。
by iga1008
| 2014-09-19 22:57
| 寺社
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