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2014年 10月 01日

古寺探訪~奈良篇⑧~「法隆寺」(3)

前回の「西院伽藍」につづいて、今日は「東院伽藍」を・・・。

この東院はあらたに奈良時代になってから、かって聖徳太子が住んでいたといわれる斑鳩宮の跡地に建てられたものである。
その中心は「夢殿」であり、聖徳太子の慰霊堂とされている。

ご参考までに法隆寺境内案内図をリーフレットからスキヤナで読み込み貼り付けしてみた。
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SONY α57 / TAMRON SP AF17-50mm F/2.8
東大門(奈良時代)国宝
 大宝蔵院を出て夢殿へ向かう途中に建っているこの門は、珍しい三棟造りという奈良時代を代表する建物の一つです。
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四脚門(鎌倉時代)重要文化財
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夢殿(奈良時代)国宝
西暦 601年に造営された斑鳩宮跡に、行信僧都という高僧が、聖徳太子の遺徳をしのんで、天平11年(739)に建てた伽藍を上宮王院といいます。その中心となる建物がこの夢殿です。八角円堂の中央の厨子には、聖徳太子等身の秘仏「救世(くせ)観音像[飛鳥時代]」を安置し、その周囲には聖観音菩薩像[平安時代]、聖徳太子の孝養像[鎌倉時代]、乾漆の行信僧都像[奈良時代]、平安時代に夢殿の修理をされた道詮律師の塑像[平安時代]なども安置しています。この夢殿は中門を改造した礼堂[鎌倉時代]と廻廊に囲まれ、まさに観音の化身と伝える聖徳太子を供養するための殿堂としてふさわしい神秘的な雰囲気を漂わせています。
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 この夢殿の中心となる仏像「救世観音像」は"秘仏"とされ、施錠された厨子の奥深く木綿布で幾重にも巻かれたまま保存されていたが、明治17年になり明治政府の公認のもと岡倉天心とアメリカの哲学者・フェノロサにより日の目をみたものという。その際にも、寺の僧侶たちは「祟りがある」と云い頑なに開錠を拒んだとあり、強引にフェノロサにより鍵を開けられたときはその場より逃げてしまったそうである。
 この木彫りの仏像は、発見者フェノロサによってモナ・リザに比せられた。口元に不思議な微笑みを浮かべていたからである。

ここまで説明するとどうしても画像を載せなければならないのだが、今回の法隆寺の記事で多大に参考・引用させてもらっている「隠された十字架~法隆寺論」(梅原猛・著)の口絵を借用させてもらうこととした。
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 ((だが、なぜ秘仏とされ、幾重にも木綿布で巻かれて鍵を掛けた厨子の奥へ隠されなければならなかったのかは謎のままである。詩人でもあり彫刻家でもある高村光太郎は「この仏の全体のスタイルは人のいふ通り北魏の様式を忠実に踏襲してゐて、釣合といひ衣紋のひだといひその左右斉整といひ、殆ど公式に従った抽象的形態を持ってゐるのであるが、首がまるで違ふ。顔面となると、ガンタラ系統の様式がどこにもなく、ただアーカイックな、ナイーブな人面がそこにある。」(『高村光太郎選集6』)と批評しているようで、この顔の部分は聖徳太子であるとの意見は定説化している。そして、この仏像をこしらえた仏師については「この仏師造り畢(おわ)りて、久しからずして死に畢る。その所以を知らざるの者なり」(『聖徳太子伝私記』法隆寺僧・顕真著)と記録があるそうで、いよいよ謎めいている。))
東院鐘楼(鎌倉時代)国宝
 この鐘楼は袴腰(はかまごし)と呼ばれる形式の建物で、内部には「中宮寺」と陰刻された奈良時代の梵鐘が吊るされています。
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by iga1008 | 2014-10-01 19:18 | 寺社 | Trackback | Comments(0)
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