PHOTO DIARY

iga1008.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:寺社( 55 )


2014年 09月 19日

古寺探訪~奈良篇⑥~「室生寺」

「長谷寺」拝観の帰途、近くの「室生寺」に立ち寄った。

ここは「女人高野」の別名で有名となった寺であるが、「長谷寺」同様「山の寺」であり階段の多いのには閉口した。(笑)

寺の成り立ちなどはリーフレットよりもWikipediaのほうが詳細に書かれているので、また借用の仕儀となった。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

「室生寺(むろうじ)」は、奈良県宇陀市にある真言宗室生寺派大本山の寺院。山号を宀一山(べんいちさん)と号する。開基(創立者)は賢憬(賢璟)、本尊は釈迦如来である。奈良盆地の東方、三重県境に近い室生の地にある山岳寺院である。宇陀川の支流室生川の北岸にある室生山の山麓から中腹に堂塔が散在する。平安時代前期の建築や仏像を伝え、境内はシャクナゲの名所としても知られる。女人禁制だった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから「女人高野」の別名がある。なお、山号の「宀一」は「室」のうかんむりと「生」の最後の一画だという。仏塔古寺十八尊第十八番。

天武天皇9年(680年)、役小角(役行者)の草創、空海の中興という伝承もあるが、記録で確認できる限りでは、奈良時代最末期の草創と思われる。室生寺の東方約1キロのところには竜神を祀る室生竜穴(りゅうけつ)神社があるが、室生寺の草創にも竜神が関係している。

『続日本紀』や『宀一山年分度者奏状』(べんいちさんねんぶんどしゃそうじょう)によると、奈良時代末期の宝亀年間(770年-781年)、時の東宮・山部親王(のちの桓武天皇)の病気平癒のため、室生の地において延寿の法を修したところ、竜神の力で見事に回復したので、興福寺の僧・賢憬(賢璟)が朝廷の命でここに寺院を造ることになったという。賢璟は延暦12年(793年)没しており、造営は同じ興福寺の僧である弟子の修円に引き継がれた。修円は承和2年(835年)に没しているが、現存の室生寺の堂塔のうち、この時期(9世紀前半)にまでさかのぼると見られるのは五重塔のみであり、現在のような伽藍が整うまでには相当の年数を要したものと思われる。

草創にかかわった2人の人物が興福寺僧であった関係から、室生寺は長らく興福寺との関係が深かったが、時代は下って江戸時代の元禄11年(1698年)、興福寺の法相宗から独立して、真言宗寺院となった。女人の入山が許されたことから「女人高野」と呼ばれ、これは室生寺の代名詞にもなっている。近世には5代将軍徳川綱吉の母桂昌院の寄進で堂塔が修理されている。

1964年には真言宗豊山派から独立し、真言宗室生寺派の大本山となった。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

SONY α57 / TAMRON SP AF17-50mm F/2.8
門前町も鄙びた雰囲気が心地よい
e0132243_22105027.jpg
e0132243_22105969.jpg

境内への入り口となる「太鼓橋」
e0132243_22123475.jpg
e0132243_22124434.jpg

朱塗りの橋を渡り終えると「本坊」があり、右手へ折れて「仁王門」へ
e0132243_22155150.jpg
e0132243_221605.jpg

「仁王門」を潜って少し進むと「鎧坂(よろいざか)」と呼ばれる石段となる。変わった名前であるが、坂の上から石段を見下ろすと鎧(よろい)のように重なってみえることから名付けられたらしい。
e0132243_2222301.jpg
e0132243_22225492.jpg

登ったところにある「金堂」 
「金堂」平安時代初期<国宝>は正面側面ともに五間の単層寄棟造り柿葺。内陣には堂々とした一木造の御本尊・釈迦如来像(平安初期・国宝)を中心に、向かって右側に薬師如来像(平安初期・重文)、地蔵菩薩像(平安時代・重文)、左側に文殊菩薩像(平安初期・重文)、十一面観音菩薩像(平安初期・国宝)の各像が並び、その前に運慶の作と伝えられる十二神将像(鎌倉時代・重文)が一列に並べられている。本尊の背後の板壁には珍しい帝釈天曼荼羅図(平安初期・国宝)が描かれている。(以上、リーフレットより)
e0132243_2238262.jpg

「金堂」の左側から石段を上り、さらに奥へ進む(登る?)と「本堂」へ行き着く。
静かな佇まいにしばらく見とれてしまった。
「本堂(灌頂堂)」鎌倉時代<国宝>入母屋造、檜皮葺き。桁行5間、梁間5間。室生寺の密教化が進んでいた鎌倉時代後期、延慶元年(1308年)の建立。梁間5間のうち、手前2間を外陣、奥の3間を内陣とする。この堂は灌頂堂(かんじょうどう)とも称され、灌頂という密教儀式を行うための堂である。内陣中央の厨子には如意輪観音坐像(重文)を安置し、その手前左右の壁には両界曼荼羅(金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅)を向かい合わせに掛け、灌頂堂としての形式を保持している。正面は5間とも和様の蔀戸(しとみど)とするが、両側面の前方2間は桟唐戸とする。桟唐戸の使用や、頭貫の木鼻などに大仏様(だいぶつよう)の要素がみられる。(以上、Wikipediaより)
e0132243_22463253.jpg

「本堂」左側からさらに石段を上ったところにある「五重塔」
「五重塔」平安時代初期<国宝> 800年頃の建立で、木部を朱塗りとする。屋外にある木造五重塔としては、法隆寺塔に次ぎわが国で2番目に古く、国宝・重要文化財指定の木造五重塔で屋外にあるものとしては日本最小である。高さは16メートル強、初重は1辺の長さ2.5メートルの小型の塔で、高さは興福寺五重塔の3分の1ほどである。
通常の五重塔は、初重から1番上の5重目へ向けて屋根の出が逓減(次第に小さくなる)されるが、この塔は屋根の逓減率が低く、1重目と5重目の屋根の大きさがあまり変わらない。その他、全体に屋根の出が深く、厚みがあること、屋根勾配が緩いこと、小規模な塔の割に太い柱を使用していることなどが特色である。屋根の大きさが1重目と5重目とで変わらないのに対し、塔身は上へ行くにしたがって細くなり、5重目の一辺は1重目の6割になっている。しかし、斗(ます)、肘木などの組物の大きさは同じなので、5重目では組物と組物の間隔が非常に狭くなっている。側柱(外面の柱)の径は1重目が28センチ、2重目以上が23センチである。日本の他の仏塔では、最上部の九輪の上に「水煙(すいえん)」という飾りが付くが、この塔では水煙の代わりに宝瓶(ほうびょう)と称する壺状のものがあり、その上に八角形の宝蓋(ほうがい)という傘状のものが乗っている珍しい形式である。寺伝では、創建にかかわった僧侶修円がこの宝瓶に室生の竜神を封じ込めたとされる。(以上、Wikipediaより)
e0132243_22504591.jpg
e0132243_22505453.jpg

この上に「奥の院」があるが、さすがに上る元気もなく、海外の若い観光客たちが元気いっぱいで降りてくる姿を横目に帰途に就いた次第である。
したがって、「龍穴神社」も寄らずに帰ってきたことは、思い起すと甚だ残念である。
e0132243_2302932.jpg

※各画像はクリックで拡大、再クリックで元に戻ります。
にほんブログ村 写真ブログへ
[PR]

by iga1008 | 2014-09-19 22:57 | 寺社
2014年 09月 18日

古寺探訪~奈良篇⑤+~「長谷寺」追記

奈良「長谷寺」については今少し書き加えたいことがあるので、ご容赦を・・。

前回の記事および写真でご紹介した、仁王門をくぐって長谷寺に至る長い石段の「登廊(のぼりろう)」の入り口に「諸佛径行所」「諸天神衹在」と書いてある。
この二枚の木板については下記の、長谷寺・化主(けしゅ)であられる加藤精一氏のことばを借りよう。

これは「ここは神様と仏様がおられるところです」という意味だ。
昇っていくと蔵王権現を祀るお堂があり、山上には三社大権現、三部大権現、滝蔵権現、大黒天等々の社やお堂が並び祀られている。本堂内にも稲荷大明神などのお像がある。毎朝のお勤めの次第にも本尊のお観音さまにつづけて諸如来から天照皇大神宮をはじめご縁のある神々、諸神社に向かってお参りする。まさに長谷寺では神さまと仏さまが並んでまつられていながらお互いになんのさまたげにもなっていない。理屈抜きに共存しているのである。<以上、「長谷寺の風格」より引用>

現在日本の神仏混淆について平易にご説明されている。
もともとはこの「長谷寺」の地、初瀬山は古くには天照大神が祀られていた山であり、のちに「伊勢神宮」に移るまではここが日本の神々の総本家であったそうである。
現在見る門前町は初瀬(はせ)川沿いに長く延びている。昔、そこは伊勢参りでも賑わった旧伊勢本街道。歴史も活気もある門前町である。

SONY α57 / TAMRON SP AF17-50mm F/2.8
e0132243_11171490.jpg
e0132243_11172585.jpg
e0132243_11173282.jpg


※各画像はクリックで拡大、再クリックで元に戻ります。
にほんブログ村 写真ブログへ
[PR]

by iga1008 | 2014-09-18 11:17 | 寺社
2014年 09月 14日

古寺探訪~奈良篇⑤~「長谷寺」

少し時間が空いてしまったが、また旅に出かけていたものでご容赦を・・。

今回は「古寺探訪」の奈良篇・長谷寺である。なかなか見応えのある寺だ。

「長谷寺(はせでら)」は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山の寺。山号を豊山神楽院と称する。
686年を起源とする。貴族や徳川将軍家の帰依を受けて栄えた。舞台造の本堂(国宝)は17世紀に3代将軍徳川家光公のご寄進により再建された。本尊十一面観音像(重要文化財)は高さ10mを超え、木造の仏像としては日本最大。そのほか、約千点にも及ぶ文化財を所蔵する。
「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多く240寺程存在する。他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。

初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬~5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また『枕草子』『源氏物語』『更級日記』など多くの古典文学にも登場する。中でも『源氏物語』にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。

SONY α57 / TAMRON SP AF17-50mm F/2.8
e0132243_20343958.jpg

「仁王門」
長谷寺の総門で、三間一戸入母屋造本瓦葺の楼門である。両脇には仁王像、楼上に釈迦三尊十六羅漢像を安置する。現在の建物は明治二十七年(1894)の再建。「長谷寺」額字は、後陽成天皇の御宸筆。
e0132243_2035020.jpg

門を潜るとすぐに長い石段(登廊)となる。
e0132243_20375614.jpg

「登廊(のぼりろう)」< 重要文化財>
平安時代の長歴三年(1039)に春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒の御礼に造ったもので、百八間、399段、上中下の三廊に分かれてる。下、中廊は明治二十七年(1894)再建で、風雅な長谷型の灯籠を吊るしている。
下廊
e0132243_20392967.jpg

下廊から右へ折れて登った中廊の上から下を見る。
e0132243_2043282.jpg

中廊から今度は左に折れて登る上廊
e0132243_20433789.jpg

登り切った左手に本堂がある。
e0132243_20434578.jpg

「本堂」< 国宝>
大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に懸造り(舞台造)された南面の大殿堂である。正面(内陣)は桁行(間口)の柱間九間、梁間(奥行)同五間、入母屋造本瓦葺で、また礼堂(外陣)は正堂よりやや低く、桁行九間、梁間四間、正面入母屋造本瓦葺。
現在の本堂は慶安三年(1650)三代将軍徳川家光公の寄進によって再建されたもので、平成16年には国宝に指定されています。
e0132243_204602.jpg

e0132243_20463486.jpg

「礼堂(らいどう)」外陣(げじん)< 国宝>
礼堂の南は外舞台で、そのうち五間に三間をさらに前方へ突き出し、高い擬宝珠高欄をめぐらしています。
e0132243_20481766.jpg

e0132243_2048289.jpg

「本堂」西口から。右手が「礼堂」と称される部分。
e0132243_2118324.jpg

外舞台から「本堂」を見る。
e0132243_2051471.jpg

外舞台からは広い境内が見渡せる。
e0132243_20543111.jpg

鐘楼も二階位置にある。
e0132243_20561682.jpg

山の中腹に建てられた寺ということもあって、塔頭回りも石段が巡っている。
e0132243_21221740.jpg


※各画像はクリックで拡大、再クリックで元に戻ります。
にほんブログ村 写真ブログへ
[PR]

by iga1008 | 2014-09-14 21:03 | 寺社
2014年 09月 03日

古寺探訪~奈良篇④~「東大寺」

奈良というと、ここはもう代表的な観光スポットであろう。

昔、北国の田舎の修学旅行で訪れたのが初めてで、東京圏に移り住んでからも2~3度足を運んでいるところである。
いずれも大仏様が目的であったが、そのときはまだカメラを手にしていなかった。

今回は「撮る」ことが目的で訪れたわけであるが、あいにく拝観時間を過ぎていたにのは甚だ後悔しきりであった。だが、境内と「二月堂」を跳び歩いて久しぶりの「東大寺」をカメラに収めた。

「東大寺」の成り立ちはかなり入り組んでいて、今回もWikipediaの助けを借りることとした。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。

金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。現別当(住職・221世)は、筒井寛昭。
奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられた。
東大寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


SONY α57 / TAMRON SP AF17-50mm F/2.8
「南大門」<国宝>
天平創建時の門は平安時代に大風で倒壊した。現在の門は鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人(ちょうげんしょうにん)が再建したもので、今はない鎌倉再建の大仏殿の威容を偲ばせる貴重な遺構である。
正治元年(1199)に上棟し、建仁3年(1203)には門内に安置する仁王像とともに竣工した。入母屋造、五間三戸二重門で、ただ下層は天井がなく腰屋根構造となっている。また屋根裏まで達する大円柱18本は、21mにも及び、門の高さは基壇上25.46mもある。大仏殿にふさわしいわが国最大の山門である。(東大寺HPより)
e0132243_21113471.jpg

e0132243_21114289.jpg

仁王像二体は、昭和63年から5年間にわたって全面解体修理が行われ、天平創建期から向かい会って立っていたことや、山口県で伐採された木材が、約1年程で搬送され、古文書の記述通り、ほぼ70日間で二体同時進行で、造像されたことも証明された。(同上)
今年は10月6日から12月22日にかけて阿形(あぎょう)像(口を開いている像)を修理することとなっているようで、その間は観ることができなくなるそうである。口を閉じた吽形(うんぎょう)像は来年度に修理するとのことであるが、今回は拝観できてラッキーであった。高さ8mを超す像の修復は大変な作業であろうと思われる。
e0132243_21115216.jpg

e0132243_2112016.jpg

「大仏殿」の入り口となる「中門」。<重要文化財>
私同様に遅く来た観光客が鹿と記念写真を撮るのに立て込んでいた。
e0132243_21225229.jpg

「法華堂」(三月堂)<国宝>
東大寺建築のなかで最も古く、寺伝では東大寺創建以前にあった金鍾寺(きんしょうじ)の遺構とされる。752(天平勝宝4)の東大寺山堺四至図(さんかいしいしず)には「羂索堂(けんさくど)」とあり、不空羂索観音を本尊として祀るためのお堂である。旧暦3月に法華会(ほっけえ)が行われるようになり、法華堂、また三月堂ともよばれるようになった。
もとは寄棟(よせむね)造りの正堂(しょうどう)と礼堂(らいどう)が軒を接して建つ配置であったが、鎌倉時代、礼堂を入母屋(いりもや)造りに改築して2棟をつないだ。正堂は天平初期の建築だが、礼堂は大仏様(だいぶつよう)の特色が見られる鎌倉時代の建築。時代の異なる建築が高い技術によって結ばれ、調和の取れた美しい姿を見せる。(東大寺HPより)
e0132243_2123324.jpg

「二月堂」<国宝>
旧暦2月に「お水取り(修二会)」が行われることからこの名がある。二月堂は平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火には焼け残ったが、寛文7年(1667年)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物である。本尊は大観音(おおかんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、どちらも何人も見ることを許されない絶対秘仏である。建物は2005年12月、国宝に指定された。
e0132243_21243395.jpg

「修二会(しゅにえ)」の時にはこの狭い回廊(舞台)を大松明が駆け巡る。
e0132243_21335048.jpg

回廊からの眺め。前方に世界最大の木造建築である「大仏殿」の屋根が見える。
e0132243_21344131.jpg

「修二会」の練行衆が駆け降りる石段。
ここでの入江泰吉氏の逸話が司馬遼太郎氏の「街道をゆく・奈良散歩」に記されているだけに、一層興味津々で見させてもらった。
e0132243_21464100.jpg


※各画像はクリックで拡大、再クリックで元に戻ります。
にほんブログ村 写真ブログへ
[PR]

by iga1008 | 2014-09-03 21:45 | 寺社
2014年 08月 31日

古寺探訪~奈良篇③~「興福寺」と奈良公園

前回までのブログで主として京都から西日本の地域への旅を続けてきたが、やはり主目的は「古の日本の文化」を肌で感じたいと言ったところであろうか。
北国生まれの身としては、伝え聞いてきた歴史に裏付けられた土地や建物を実際に体感できることは甚だ興奮する旅であった。

尊敬する司馬遼太郎氏の言によると「われわれが持続してきた文化というのは、弥生式時代に出発して室町で開花し、江戸期で固定して、明治後崩壊を続け、昭和40年前後にほぼ滅びた」そうである。
数少ない文化の残存物としての寺社は、したがって古の文化に触れることのできる貴重なものと言える。
それにつけても、明治期の廃仏毀釈のムーブメントにより、数多くの仏寺や仏像が取り壊されたりまた売りに出されたりしたことは返す返すも残念なことだ。

今回の奈良行は、この事件によって大きな変遷を辿らざるを得なかった「興福寺」を見てみたかったからともいえる。

「法相宗大本山・興福寺」(HPより引用) ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
法相宗の大本山として知られる興福寺。その前身は飛鳥の「厩坂寺」であり、さらにさかのぼると天智朝の山背国「山階寺」が起源となります。
その山階寺は、天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である鏡女王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられており、この名称は後世においても興福寺の別称として使われています。
その後、壬申の乱(672)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、その地名を取って厩坂寺とされました。
さらに、平城遷都の際、和銅3年(710)藤原不比等の計画によって移されるとともに、「興福寺」と名付けられたのです。
天皇や皇后、また藤原氏の人々の手によって次々に堂塔が建てられ整備が進められ、奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますますさかんになります。
平安時代には春日社の実権を手中におさめ、大和国を領するほどになり、また、鎌倉・室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たりました。
文禄4年(1595)の検地で春日社興福寺合体の知行として2万1千余石と定められ、徳川政権下においてもその面目は保たれました。
その後、明治時代はじめの神仏分離令、廃仏毀釈、社寺上地令などで興福寺は荒れましたが、その後は寺僧有縁の人々の努力で復興が進展し新たな興福寺としてその歴史を刻み続けています。


SONY α57 / TAMRON SP AF17-50mm F/2.8
「興福寺」の伽藍で残る最古の建物「北円堂」。鎌倉時代。<国宝><世界遺産>
e0132243_22431848.jpg

奈良の風景を代表する「五重塔」。天平2年(730)創建であるが、現存のものは応永33年(1426)頃に再建されたもの。<国宝><世界遺産>
明治初期の「廃仏毀釈」により、当時の価格で25円で売りに出されたのは有名である。
e0132243_22475972.jpg

「奈良公園」を少し歩いてみた。
e0132243_224922100.jpg

e0132243_2250424.jpg
e0132243_2250285.jpg

公園内は池も多く、これは鷺池と浮見堂。
e0132243_22504937.jpg

猿沢池と興福寺五重塔
e0132243_2303765.jpg

そして、ここ「奈良ホテル」もかっては興福寺の大乗院が存在した場所に建つ。
明治42年(1909)に建てられ、終戦後は米軍に接収されていた時期もある。
e0132243_22585078.jpg
e0132243_22585811.jpg

奈良ホテルのすぐそばに「大乗院庭園」が残されている。
奈良ホテルの宿泊客には無料の入園券がサービスされていたが、時間の関係で外柵から撮影することにした。
e0132243_2332922.jpg


さらにここで「廃仏毀釈」についてWikipediaから引用 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
一般に「廃仏毀釈」と言えば、日本において明治維新後に成立した新政府が慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発した太政官布告(通称神仏分離令、神仏判然令)、明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの政策によって引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。

神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた。神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などが見られた。1871年(明治4年)正月5日付太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

このとき、「興福寺」の僧侶たちは「春日大社」の神職にさせられ、「興福寺」は廃寺同然になった。
往時は東大寺を凌ぎ175もの堂塔伽藍のあらかたが破棄され、現在は国宝に指定されている五重塔は、25円[当時]で売りに出され、薪にされようとしていたのである。

その後、明治政府は廃仏毀釈をひっこめ、明治15年には、逆に古社寺を保存するための「古社寺保存金制度」を実施。さらに明治22年、興福寺跡を含めて広大な「奈良県立公園」が設立された。
われわれが、芝生と松林の静まりのなかで、国宝興福寺五重塔の下を過ぎてゆく幸福を得るようになるのは、明治政府が正気を取り戻したおかげである。
考えてみれば、日本における狂信的な国粋主義が、国家と国民に禍害以外のものをもたらしたことがあるだろうか。(以上は、司馬遼太郎「街道をゆく・奈良散歩」より抜粋引用)

※各画像はクリックで拡大、再クリックで元に戻ります。
にほんブログ村 写真ブログへ
[PR]

by iga1008 | 2014-08-31 23:04 | 寺社
2014年 08月 22日

古寺探訪~奈良篇②~「岩船寺」

「浄瑠璃寺」の少し先に「岩船寺(がんせんじ)」(真言律宗・高雄山報恩院)がある。
住所的にはこちらも京都府であるが、「浄瑠璃寺」からすぐ近くとのことで大体セットで訪れるコースである。

どちらも奈良仏教の宗派「真言律宗西大寺」の末寺であるが、ここ「岩船寺」のほうが創立は古く、天平元年(729)とされる。別名「あじさい寺」。

SONY α57 / TAMRON SP AF17-50mm F/2.8
山門
e0132243_20541369.jpg

本堂
e0132243_20543882.jpg

「阿字池」から本堂を望む。もう少し早ければアジサイが色を添えてくれたのだが・・。
e0132243_20575339.jpg

「三重塔」(重要文化財) 室町時代
e0132243_21123166.jpg
e0132243_21124096.jpg
e0132243_2112531.jpg


※各画像はクリックで拡大、再クリックで元に戻ります。
にほんブログ村 写真ブログへ
[PR]

by iga1008 | 2014-08-22 21:14 | 寺社
2014年 08月 18日

古寺探訪~奈良篇①「浄瑠璃寺」~

旅ブログが続いて恐縮であるが、理由は後日述べるとして、今回は奈良へ訪れた。

目的は「古寺探訪」と銘打ったが、それほど深く探るものではないことを事前にお詫びしておこう。
個人のテーマとしての「今に残る古い日本を撮る」という旅である。

初日は「浄瑠璃寺」(真言律宗・小田原山浄瑠璃寺)を訪れた。
ここは住所的には京都市となるが、元々は奈良の興福寺の別所(別院)である。

寺名は創建時の御本尊、薬師仏の浄土である浄瑠璃世界からつけられた。
薬師仏は東方浄土の教主で、現実の苦悩を救い、目標の西方浄土へ送り出す遣送仏である。

SONY α57 / TAMRON SP AF17-50mm F/2.8
e0132243_2150407.jpg

e0132243_21502171.jpg

山門
e0132243_21503059.jpg

「九体阿弥陀如来像」(国宝)を奉る「九体阿弥陀堂」(国宝) 藤原時代
e0132243_21504284.jpg

仏像は無論撮影禁止であるが、HPより借用。
e0132243_21272926.jpg

薬師仏を安置する「三重塔」(国宝) 藤原時代
e0132243_21514322.jpg
e0132243_215154100.jpg

e0132243_2152165.jpg

境内は浄土式庭園となっているが、訪問時は遺跡発掘作業中とのことで「中央宝池」の中に作業員が数人いた。
e0132243_21513341.jpg


※各画像はクリックで拡大、再クリックで元に戻ります。
にほんブログ村 写真ブログへ
[PR]

by iga1008 | 2014-08-18 21:28 | 寺社
2014年 06月 04日

京都「広隆寺」を訪ねて

太秦(うずまさ)まで出向いたからには、ということですぐそばにある「広隆寺」へ。

ここは京都では最古の寺で、国宝の「弥勒菩薩半跏像」を蔵することで有名であるが、元々は帰化人の秦(はた)氏の氏寺であるとのことを今回初めて知った。

SONY α700 / TAMRON SP AF17-50mm F/2.8
e0132243_220368.jpg

電車通りに面した楼門をくぐって、驚くほどの広さと静寂の参道をたどる。
e0132243_221287.jpg

e0132243_225415.jpg

突き当りにあるのは本堂にあたる「上宮王院太子殿」
e0132243_2282940.jpg

この左から奥へ進んで「弥勒菩薩」などを展示している「霊宝殿」へ。
もちろん撮影禁止なので悪しからず・・。

なんとも心の静まる境内を去り際に楼門の巨木に感動。
e0132243_22171231.jpg


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
秦氏は漢民族といわれ、5世紀ころに朝鮮から渡来して日本に定着したもののようだが、今日でも様々な地方にその名前の名残が残っている。(秦野・羽田など)
そしてここ「太秦」はまさにその原点となる土地なのだと知った。

「広隆寺」のすぐそばにある「大酒神社」にその由来書きがある。拡大してご覧いただきたいが、これをみると「松尾大社」「伏見稲荷」なども秦氏に関連するものであることが分かるし、太秦の地名の由来に関するものも窺われて面白い。
e0132243_22194762.jpg

e0132243_22195579.jpg


※各画像はクリックで拡大、再クリックで元に戻ります。
にほんブログ村 写真ブログへ
[PR]

by iga1008 | 2014-06-04 22:21 | 寺社
2014年 04月 27日

京の桜~妙心寺・塔頭「退蔵院」~

日本最大の禅寺、臨済宗大本山「妙心寺」。

46もの塔頭を擁する境内は広大である。今回は桜見物の名所である塔頭のひとつ「退蔵院」を訪れた。

二週間ほど前、4月14日のことなので、今頃は見頃を過ぎているかもしれない。

SONY α700 / TAMRON SP AF17-50mm F/2.8
「妙心寺」はさすがに大きいので「北総門」と「南総門」がある。
私は今回「南総門」から入山した。
e0132243_045168.jpg

「三門」
e0132243_055887.jpg

「仏殿」
e0132243_062180.jpg

「退蔵院」は「南総門」からすぐの位置にある。
e0132243_07463.jpg

昭和の名園と呼ばれる池泉回遊式庭園「余香苑」へ。
門を潜るとすぐ前に「しだれ桜」が満開であった。
e0132243_0123037.jpg
e0132243_0124042.jpg

e0132243_0135451.jpg

「ひょうたん池」
e0132243_0132137.jpg


※各画像はクリックで拡大、再クリックで元に戻ります。
にほんブログ村 写真ブログへ
[PR]

by iga1008 | 2014-04-27 00:14 | 寺社
2014年 04月 22日

京の桜~醍醐寺~

京都の「世界文化遺産」指定は、先日の「二条城」を始めとして現在17件となっている。
宇治の「平等院」もそのひとつであるが、今日の「醍醐寺」もやはり「世界文化遺産」に指定されている。

私は今回初めて訪れたわけであるが、他の「文化遺産」と大きく異なっていることに少々驚いた。
その「違い」とは、建物が大変老朽化したままになっていることである。

京都の寺社群に対するいままでの印象は、古いが保存状態は良好もしくは維持管理が行き届いているということであった。
その観点からすると、この「醍醐寺」はまさに荒れ寺(?)に近い。
874年(貞観16)創建という歴史からみると当然のことなのかもしれない。だがしかし、観光客などによる落書き・キズも結構多いことは心が痛む。どうも現代人というものは、厳重に隔離された領域のみを歩かせる以外に対策がないのであろうか? 昔の人々はもっと信心深かったはずだから。

訪れた15日は、ちょうど13日に「豊太閤花見行列」が行われた後の垂れ幕などがまだ片付けられずに残されたままの境内であったが、肝心の桜はほぼ散り終わっている状態であった。
「西大門」で拝観料の受付をしていたオヤジさんなどは、カメラ持参の私を見て「もう遅かったよ」などと気の毒そうであった。

SONY α700 / TAMRON SP AF17-50mm F/2.8
「総門」としだれ桜
e0132243_22151893.jpg

「三宝院・唐門」(国宝) この門は昨年修復が完了したばかり。
e0132243_22184150.jpg

「西大門」(通称「仁王門」) 1605(慶長10)年、豊臣秀頼の再建になる。
e0132243_22235567.jpg

「仁王像」はさらに古く、平安後期1134(長承3)年の造立。可哀想なほど傷みが激しい。
e0132243_222846100.jpg
e0132243_22291398.jpg

「金堂」(国宝) 醍醐天皇により926(延長4)年創建であるが、その後焼失。豊臣秀吉により再建、秀頼の時代1600(慶長5)年に完成。
e0132243_2234187.jpg

「五重塔」(国宝) 醍醐天皇の皇子・朱雀天皇により着工、15年後の村上天皇時代951(天暦5)年に完成。
e0132243_22402265.jpg

「観音堂」西国三十三番観音霊場第11番札所。
e0132243_22452396.jpg

「弁天堂」
e0132243_22435197.jpg

e0132243_22424896.jpg
e0132243_22425644.jpg


※各画像はクリックで拡大、再クリックで元に戻ります。
にほんブログ村 写真ブログへ
[PR]

by iga1008 | 2014-04-22 22:45 | 寺社