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2014年 10月 07日

古寺探訪~奈良篇⑨~「法起寺」

奈良の古寺探訪も今回で最後となる。

 「法隆寺」(西院)は世界最古の仏教建築であるが、世界遺産として我が国第一号に認定されたのは『法隆寺地域の仏教建造物』となっており、「法隆寺」の建造物47棟と「法起寺」の三重塔を加えた48棟が含まれる。

 「法起寺」を訪れるために、法隆寺から中宮寺を経て野路をたどった。
途中、地元の人たちに道順を聞きつつ進んだのだが、"ほうきじ"と言うと「ああ、"ほっきじ" ね?」と言い直された。
この寺は、以前は「法起寺(ほっきじ)」と読まれていたが、世界遺産に登録されるにあたり「法起寺(ほうきじ)」の読みを正式名とすることとなったとのこと。
 地元の人たちはいまでも昔の呼び名で言うほうが多いようだ。

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「法起寺(ほうきじ)」(聖徳宗)
 法起寺は奈良県生駒郡斑鳩町大字岡本にあり、岡本尼寺・岡本寺・池後寺(いけじりでら)・池後尼寺と呼ばれている。
 この寺は、推古14年(606)に聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮(おかもとのみや)を寺に改めたものと伝え、法隆寺・四天王寺・中宮寺などと共に、太子御建立七ヵ寺の一つにかぞえられている。 (「法起寺」リーフレットより)

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「南大門」ー江戸時代初期の再建。四脚門
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「西門」ーここが入り口となる
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「聖天堂」ー文久3年(1863)の建立
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「講堂」ー元禄7年(1694)に再建
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「三重塔」(国宝)ー慶雲3年(706)に建立されたとする日本最古の三重塔。
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この寺の創建はリーフレットにも明示されていない。しかし、『聖徳太子伝私記』に当時の三重塔にあった露盤銘が記録されており、それによると推古30年(622)に太子がその薨去に臨み、長子の山背大兄王に宮殿(岡本宮)を改めて「寺」とすることを遺命したとあり、さらには舒明10年(638)に福亮僧正が太子のために弥勒像一体と金堂を造立したとあるので、少なくともこのときには岡本寺(法起寺の前身)はあったのではないかとうかがえる記述となっている。その後「三重塔」は慶雲3年(706)に建立されたとされる。

 その後の時代の流れのなかで寺は衰退し、江戸時代の初め頃には「三重塔」のみを残すのみであったという。その荒廃を憂いて当寺の再興を発願した寺僧の真政圓忍(しんせいえんにん)とその弟子たちにより、現在の寺観が整えられるに至っている。
 この衰退の主因は、法隆寺西院に加えられた新たな太子霊堂と称される「夢殿」を中心とした法隆寺東院の建立にあると思うのは私見であるがどうであろうか?
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by iga1008 | 2014-10-07 15:24 | 寺社
2014年 10月 03日

古寺探訪~奈良篇⑧~「法隆寺」(雑記)

最後に「法隆寺」雑記を加えたい。

「法隆寺」には「七不思議伝説」がある。

 ①法隆寺にはクモが巣をかけない
 ②南大門の前に鯛石とよばれる大きな石がある
 ③五重塔の上に鎌がささっている
 ④不思議な伏蔵がある
 ⑤法隆寺の蛙には片目がない
 ⑥夢殿の礼盤(僧侶の坐る台)の下に汗をかいている
 ⑦雨だれが穴をあけるべき地面に穴があかない

というのだそうな。これはずいぶん古くからあるそうで、一説には江戸時代からとのことである。

このうち、拝観時にわれわれの目にみえるものだけ撮影してみた。

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「南大門」の前の「鯛石」
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「五重塔」相輪に鎌がささっている。(赤丸の部分)
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まあ、いまではそれぞれにそれらしい解釈がされているようであるから詳しく書かないが、ただ私がなんとも不思議だと思ったのは別にあって、金堂と五重塔の前にある「礼拝石」というものである。
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なんでも、僧侶たちが礼拝するのにこの場所からとする位置であるという。
「怨霊封じ」という「中門」の位置づけを考えると、これ以上近付くと危険という場所だったのではないか?と思ってしまう。

あと、これは他寺の裳階(もこし)構造の建物にもみられるので、怨霊説とは関係がないが、五重塔1階部分の「隅鬼」(「邪鬼」(あまのじゃく)ともいう)を撮ってみた。これは東西南北に各1体ある。
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おなじ「五重塔」最上層にある彫刻支柱も一風変わっていて面白い。
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以上で「法隆寺」から退散するとしよう。

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by iga1008 | 2014-10-03 17:52 | 寺社
2014年 10月 01日

古寺探訪~奈良篇⑧~「法隆寺」(3)

前回の「西院伽藍」につづいて、今日は「東院伽藍」を・・・。

この東院はあらたに奈良時代になってから、かって聖徳太子が住んでいたといわれる斑鳩宮の跡地に建てられたものである。
その中心は「夢殿」であり、聖徳太子の慰霊堂とされている。

ご参考までに法隆寺境内案内図をリーフレットからスキヤナで読み込み貼り付けしてみた。
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東大門(奈良時代)国宝
 大宝蔵院を出て夢殿へ向かう途中に建っているこの門は、珍しい三棟造りという奈良時代を代表する建物の一つです。
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四脚門(鎌倉時代)重要文化財
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夢殿(奈良時代)国宝
西暦 601年に造営された斑鳩宮跡に、行信僧都という高僧が、聖徳太子の遺徳をしのんで、天平11年(739)に建てた伽藍を上宮王院といいます。その中心となる建物がこの夢殿です。八角円堂の中央の厨子には、聖徳太子等身の秘仏「救世(くせ)観音像[飛鳥時代]」を安置し、その周囲には聖観音菩薩像[平安時代]、聖徳太子の孝養像[鎌倉時代]、乾漆の行信僧都像[奈良時代]、平安時代に夢殿の修理をされた道詮律師の塑像[平安時代]なども安置しています。この夢殿は中門を改造した礼堂[鎌倉時代]と廻廊に囲まれ、まさに観音の化身と伝える聖徳太子を供養するための殿堂としてふさわしい神秘的な雰囲気を漂わせています。
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 この夢殿の中心となる仏像「救世観音像」は"秘仏"とされ、施錠された厨子の奥深く木綿布で幾重にも巻かれたまま保存されていたが、明治17年になり明治政府の公認のもと岡倉天心とアメリカの哲学者・フェノロサにより日の目をみたものという。その際にも、寺の僧侶たちは「祟りがある」と云い頑なに開錠を拒んだとあり、強引にフェノロサにより鍵を開けられたときはその場より逃げてしまったそうである。
 この木彫りの仏像は、発見者フェノロサによってモナ・リザに比せられた。口元に不思議な微笑みを浮かべていたからである。

ここまで説明するとどうしても画像を載せなければならないのだが、今回の法隆寺の記事で多大に参考・引用させてもらっている「隠された十字架~法隆寺論」(梅原猛・著)の口絵を借用させてもらうこととした。
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 ((だが、なぜ秘仏とされ、幾重にも木綿布で巻かれて鍵を掛けた厨子の奥へ隠されなければならなかったのかは謎のままである。詩人でもあり彫刻家でもある高村光太郎は「この仏の全体のスタイルは人のいふ通り北魏の様式を忠実に踏襲してゐて、釣合といひ衣紋のひだといひその左右斉整といひ、殆ど公式に従った抽象的形態を持ってゐるのであるが、首がまるで違ふ。顔面となると、ガンタラ系統の様式がどこにもなく、ただアーカイックな、ナイーブな人面がそこにある。」(『高村光太郎選集6』)と批評しているようで、この顔の部分は聖徳太子であるとの意見は定説化している。そして、この仏像をこしらえた仏師については「この仏師造り畢(おわ)りて、久しからずして死に畢る。その所以を知らざるの者なり」(『聖徳太子伝私記』法隆寺僧・顕真著)と記録があるそうで、いよいよ謎めいている。))
東院鐘楼(鎌倉時代)国宝
 この鐘楼は袴腰(はかまごし)と呼ばれる形式の建物で、内部には「中宮寺」と陰刻された奈良時代の梵鐘が吊るされています。
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by iga1008 | 2014-10-01 19:18 | 寺社
2014年 09月 28日

古寺探訪~奈良篇⑧~「法隆寺」(2)

さて、いよいよ本題に入るわけであるが、記事が込み入ってお見苦しい点はご容赦願いたい。
ご興味のあるかたのみご一読を・・・。(笑)

「聖徳宗総本山 法隆寺」 世界最古の木造建築であり、日本の"世界遺産第一号"として知られている。

 仏教伝来は宣下3年(538)百済の聖明王より仏像・経論が贈られた年とされているが、別に欽明13年(552)とする説もある。
そして聖徳太子が生まれたと伝えられるのは敏達3年(574)。本名は厩戸(うまやど・うまやと)であり、厩戸の前で出生したことによるとの伝説がある。父親はその後用明天皇となり、太子は第二皇子として「厩戸皇子」と呼ばれていた。推古30年(622)、四十九歳にて歿している。なお、聖徳太子という呼称は生前にはなく、没後100年以上を経て天平勝宝3年(751)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる。

 推古元年(593)に摂政となり、翌年「仏教興隆の詔」を発しているように仏教を広めることに力を注いだようである。これは母方の蘇我氏の影響があったためもあるだろうと思われる。そして、このことが後年(太子の死後)蘇我氏と対立関係にあった中臣氏(当時の仏教排斥派(?)。のちに藤原氏となる)の力が強まるにつれ、蘇我氏・太子子孫の抹殺といった歴史を形成する原点でもあったように思われる。この時代は神と仏は厳然として背反するものであったとは想像に難くない。

 ともあれ、想像するしかない時代のことなのでいささかの決意をもって、ここは「法隆寺略縁起」という法隆寺の発行するリーフレットを中心に画像の説明文を構成してみた。(簡単に言うと「ですます調」の文章はすべてリーフレットから引用である) さらに(( ))で閉じた添え書きは、「隠された十字架~法隆寺論」(梅原猛・著)から引用した部分を含んでいる。

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法隆寺
 法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築として広く知られています。その創建の由来は「金堂」の東の間に安置されている「薬師如来像」の光背銘や「法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳」(747)の縁起文によって知ることができます。
 それによりますと、用明天皇が自らのご病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願されましたが、その実現を見ないままに崩御されたといいます。そこで推古天皇と聖徳太子が用明天皇の ご遺願を継いで、推古15年(607)に 寺とその本尊「薬師如来」を造られたのが この法隆寺(斑鳩寺とも呼ばれています)であると伝えられています。
 現在、法隆寺は塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられています。広さ約18万7000平方メートルの境内には、飛鳥時代を始めとする各時代の粋を集めた建築物が軒を連ね、たくさんの宝物類が伝来しています。国宝・重要文化財に指定されたものだけでも約190件、点数にして2300余点に及んでいます。
 このように法隆寺は聖徳太子が建立された寺院として、1400年に及ぶ輝かしい伝統を今に誇り、特に1993年12月には、ユネスコの世界文化遺産のリストに日本で初めて登録されるなど、世界的な仏教文化の宝庫として人々の注目を集めています。(以上、リーフレットより)

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ここでも少し書き加えるが、太子の時代に建てられた法隆寺は天智9年(670)に全焼したというのが現在の見方で、現存する法隆寺は太子の歿後100年ほどして和銅4年(711)に再建が成ったものとされる。この再建年度には政権の中枢に太子の後裔も蘇我氏もおらず藤原氏(中臣氏)が掌握しており、そのことがこの法隆寺という古寺のなりたちに謎の多い部分を加えたようである。

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南大門(室町時代)国宝
 法隆寺の玄関にあたるこの門は、永享10年(1438)に再建されたものです。
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南大門をまっすぐ進んで中門に着く。中門は立ち入り禁止である。
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中門及び廻廊(飛鳥時代)国宝
 深く覆いかぶさった軒。その下の組物や勾欄、それを支えるエンタシスの柱、いずれも飛鳥建築の粋を集めたものです。重厚な扉と左右に建つ塑像の金剛力士像[奈良時代]は、東西に延びた廻廊の連子窓と対照的な組み合わせで、並列して建つ塔と金堂を壮麗に包み込んでいます。
((この「中門」の真ん中にある柱と間口が四間という忌数であることについては謎とされており、一説には怨霊を封じ込めるための構造とする、すなわち法隆寺そのものの再建が聖徳太子の霊を封じ込めるためとの説を想起させる要因となっている。))
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門前にある平山郁夫氏筆になる石碑
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仁王像(奈良時代)重要文化財
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廻廊と連子窓(飛鳥時代)国宝
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金堂(飛鳥時代)国宝
 法隆寺のご本尊を安置する聖なる殿堂が金堂です。威風堂々としたこの建物の中には、聖徳太子のために造られた金銅釈迦三尊像[飛鳥時代]、太子の父君用明天皇のために造られた金銅薬師如来坐像[飛鳥時代]、母君穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后のために造られた金銅阿弥陀如来坐像[鎌倉時代]、それを守護するように、樟(くす)で造られたわが国最古の四天王像[白鳳時代]が邪鬼の背に静かに立っています。そのほか木造吉祥天立像・毘沙門天立像[平安時代]が安置されています。
 また天井には、天人と鳳凰が飛び交う西域色豊かな天蓋が吊され、周囲の壁面には、世界的に有名な壁画(昭和24年焼損、現在はパネルに画かれた再現壁画がはめ込まれています)が描かれ、創建当時初の美しさが偲ばれます。
((ここの仏像、なかでも釈迦三尊像の釈迦・薬師如来坐像についてはさまざまな疑問が提起されているようである。すなわち、顔だちが二体とも似すぎている、如来像にしては服装や装飾が特異であるなどのことから起こる「仏像=聖徳太子」という説がある。ようするに釈迦像ではなく、正徳太子像だという説である。阿弥陀如来像は盗難にあって鎌倉時代にあらたに鋳造されたものであるので言及されていない。だが、「聖徳太子伝私記」という法隆寺僧顕真の著(暦仁1年(1238)著)に、「須弥壇の阿弥陀三尊像は間人皇女・聖徳太子・高橋妃の御本体ゆえ、もっとも根本の尊像なり」という文言もあるようだ。))
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五重塔(飛鳥時代)国宝
 塔はストゥーパともいわれ、釈尊の遺骨を奉安するためのものであり、仏教寺院において最も重要な建物とされています。高さは約32.5メートル(基壇上より)で、わが国最古の五重塔として知られています。
 この最下層の内陣には、奈良時代のはじめに造られた塑像群があり、東面は維摩居士と文殊菩薩が問答、北面は釈尊が入滅、西面は釈尊遺骨(舎利)の分割、南面は弥勒菩薩の説法などの場面が表現されています。
((この五重塔についても、上述の「聖徳太子伝私記」には「この塔の心柱の本には、仏舎利六粒・髻髭(もとどりひげ)六毛を納籠たり、六道衆生の利するの相を表す」とあるそうで、もちろん釈迦には髻も髭(髪やひげ)もない。これはやはり聖徳太子のものであろうと考えることは我々も理解できる。とすると舎利(骨)もやはり・・・となる。))
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金堂と五重塔を別アングルで
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大講堂(平安時代)国宝
 このお堂は仏教の学問を研鑽したり、法要を行う施設として建立されましたが、鐘楼とともに延長3年(925)に落雷によって焼失しました。幸い正暦元年(990)には再建され、ご本尊の薬師三尊像及び四天王像もその時に造られています。
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以上、法隆寺「西院伽藍」より。次回は「東院伽藍」を・・。

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by iga1008 | 2014-09-28 18:14 | 寺社
2014年 09月 24日

古寺探訪~奈良篇⑧~「法隆寺」(1)

奈良の古寺といえば、真っ先に思い浮かぶであろう寺が「法隆寺」であろう。
北国の小都市に生まれた私でも、この寺の名前はすぐに覚えた。それほど有名な寺である。

だがしかし、曲がりなりにも拙ブログに採用するとなっていささか混迷に陥っている。
理由は旅から帰ってから読んだ、「隠された十字架~法隆寺論~」(梅原猛・著)が主たる理由であるが、他にも類似の法隆寺説の存在に惑わされ続けているためである。
たとえば、法隆寺の創建年度や再建か非再建かなどについてさえ、日本の代表的な学者たちが激論を交わしつつ確定に至っていないようだ。古代の記録である「日本書紀」「古事記」などにも相違があって判断の材料とはならないとは困ったことである。これ以外にもあるが次回からの記事に書き添えてみたい。

ここは昔に戻って
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」 の世界にひたることが一番であろう。

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昔、「鏡池」ほとりにあった茶店跡に建つ歌碑
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その位置から正岡子規が見たであろう法隆寺の光景を撮ってみた
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「隠された十字架~法隆寺論~」(梅原猛・著)より引用
 先日のことである。私は久しぶりに、私の処女作「仏像-心とかたち」の共著者である、前の大阪博物館館長の望月信成先生におあいした。私は法隆寺についてのある仮説に夢中になっていた。望月先生におあいしたときも、法隆寺のことをたずねた。すると先生はいわれた。
「梅原さん。法隆寺はむつかしいです。五十年研究していてもさっぱり分からない。そして、この法隆寺という寺は、後からいろいろな事実が発見されれば発見されるほど分からなくなる不思議な寺です」
 たしかに望月先生のいわれる通りである。法隆寺にかんする多くの参考書を読むがよい。すべて何だかよく分からない。だいいち、この寺の建造年代についても諸説紛々、収拾するところを知らない。分からないものがいっぱいある。その分からないところがまた法隆寺の魅力でもある。
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by iga1008 | 2014-09-24 20:30 | 寺社
2014年 09月 23日

古寺探訪~奈良篇⑦~「薬師寺」

今回の古寺探訪の旅の一番の拝観対象は、ここ「薬師寺」であった。
それも「凍れる音楽」と呼ばれる「薬師寺・東塔」を一度見てみたかったという次第である。

だがしかし、なんとも落胆すべきことに「東塔」は数年前(平成21年)から大修理のためとして無粋な「覆屋」で覆われていた。平成31年まではこの状態とのことである。
「東大寺」の仁王像は間一髪のタイミングで拝観できたのだが、いずれにせよ古寺なので致し方のないところと諦めるしかあるまい。事前に下調べをしないのが私流である。

と、気を取り直して「薬師寺」の縁起をリーフレットからご紹介しておこう。

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 「薬師寺」(法相宗大本山)は天武天皇により発願(680)、持統天皇によって本尊開眼(697)、さらに文武天皇の御代に至り、飛鳥に於いて堂宇の完成を見ました。その後、平城遷都(710)に伴い現在地に移されたものです。
当時は南都七大寺の一つとして、その大伽藍はわが国随一の壮美を誇りました。すなわち金堂を中心に東西両塔、講堂、回廊が立ち並び、なかでも裳階(もこし)を施した金堂や塔の佇まいの美しさは、"龍宮造り"と呼ばれて人々の目を奪いました。
 爾来1300年を経、この間幾多の災害を受け、特に享禄元年(1528)の兵火では、東塔(国宝・白鳳時代)を除く諸堂が灰燼に帰しました。
 昭和42年、高田好胤管主により薬師寺白鳳伽藍の復興が発願されました。失われた堂塔の復興を薬師寺の大悲願とし、お写経勧進によって、金堂・西塔・回廊、さらには平成15年3月に大講堂が復興され、白鳳伽藍の輪奐美(りんかんび)として甦りました。(以上、「薬師寺」リーフレットより。下記写真の解説も同じく。)
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とにかく、今回見ることができない「東塔」のみが白鳳時代の建築であるが、他のほぼすべての建物は最近のものであり、ここで古寺としてご紹介するのにもいささか後ろめたさが残るが、1998年(平成10年)に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。

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「南門」<重要文化財・室町時代>
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「南門」わきの受付を通ると正面にある「中門」
左に「西塔」の一部と、右に「東塔」の覆屋が見える。
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「中門」仁王像。これも新造なので色彩も美しい。しかし、なんとなく違和感を感じたのは何故だろうか。左右の像を一枚に合わせてみた。
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正面にある「金堂」
 「金堂」は薬師寺縁起によると二重二閣、五間四面、瓦葺の建物で各層に裳階(もこし)をつけた美しい堂で、龍宮造りと呼ばれています。薬師寺白鳳伽藍は、金堂をはじめとして東塔の意匠ですべて統一されています。また、「堂内の荘厳は美を尽し、燈火がなくても金色に光り輝いた」と伝えられています。
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左側に「西塔」がある。
 「西塔」は享禄元年に兵火で焼失し、昭和56年4月に453年ぶりに創建当初の白鳳様式をもって復興されました。
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右側にある「東塔」(薬師寺HPより借用)
「東塔」<国宝・白鳳時代>各層に裳階(もこし)をつけているため六重に見えますが、三重塔です。この特異な形が、全体として律動的な美しさを保ち、"凍れる(こおれる)音楽"という愛称で親しまれています。相輪の頂上に取り付けられた水煙は4枚からなり、その中には24体の飛天が透かし彫りされています。
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「金堂」の中を通り抜けると「大講堂」がある。たしかに大きい。
 「大講堂」は、正面41m・奥行20m・高さ17mあり、伽藍最大の建造物です。講堂が金堂より大きいのは古代伽藍の通則で、これは南都仏教が教学を重んじ、講堂に大勢の学僧が参集して経典を講讃したためです。大講堂の本尊には彌勒三尊像(重文・白鳳時代)、後堂には仏足石・仏足跡歌碑(国宝・白鳳時代)が安置されております。
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工事中の「東塔」の裏手に「東院堂」がある。この建物は古い。
 「東院堂」<国宝・鎌倉時代>は養老年間に吉備内親王が元明天皇の冥福を祈り、発願建立されたものです。天禄4年(973)の火災で焼失、弘安8年(1285)に建て替えられました。
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外塀はいかにも古寺の雰囲気が残る。
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by iga1008 | 2014-09-23 00:14 | 寺社
2014年 09月 19日

古寺探訪~奈良篇⑥~「室生寺」

「長谷寺」拝観の帰途、近くの「室生寺」に立ち寄った。

ここは「女人高野」の別名で有名となった寺であるが、「長谷寺」同様「山の寺」であり階段の多いのには閉口した。(笑)

寺の成り立ちなどはリーフレットよりもWikipediaのほうが詳細に書かれているので、また借用の仕儀となった。

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「室生寺(むろうじ)」は、奈良県宇陀市にある真言宗室生寺派大本山の寺院。山号を宀一山(べんいちさん)と号する。開基(創立者)は賢憬(賢璟)、本尊は釈迦如来である。奈良盆地の東方、三重県境に近い室生の地にある山岳寺院である。宇陀川の支流室生川の北岸にある室生山の山麓から中腹に堂塔が散在する。平安時代前期の建築や仏像を伝え、境内はシャクナゲの名所としても知られる。女人禁制だった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから「女人高野」の別名がある。なお、山号の「宀一」は「室」のうかんむりと「生」の最後の一画だという。仏塔古寺十八尊第十八番。

天武天皇9年(680年)、役小角(役行者)の草創、空海の中興という伝承もあるが、記録で確認できる限りでは、奈良時代最末期の草創と思われる。室生寺の東方約1キロのところには竜神を祀る室生竜穴(りゅうけつ)神社があるが、室生寺の草創にも竜神が関係している。

『続日本紀』や『宀一山年分度者奏状』(べんいちさんねんぶんどしゃそうじょう)によると、奈良時代末期の宝亀年間(770年-781年)、時の東宮・山部親王(のちの桓武天皇)の病気平癒のため、室生の地において延寿の法を修したところ、竜神の力で見事に回復したので、興福寺の僧・賢憬(賢璟)が朝廷の命でここに寺院を造ることになったという。賢璟は延暦12年(793年)没しており、造営は同じ興福寺の僧である弟子の修円に引き継がれた。修円は承和2年(835年)に没しているが、現存の室生寺の堂塔のうち、この時期(9世紀前半)にまでさかのぼると見られるのは五重塔のみであり、現在のような伽藍が整うまでには相当の年数を要したものと思われる。

草創にかかわった2人の人物が興福寺僧であった関係から、室生寺は長らく興福寺との関係が深かったが、時代は下って江戸時代の元禄11年(1698年)、興福寺の法相宗から独立して、真言宗寺院となった。女人の入山が許されたことから「女人高野」と呼ばれ、これは室生寺の代名詞にもなっている。近世には5代将軍徳川綱吉の母桂昌院の寄進で堂塔が修理されている。

1964年には真言宗豊山派から独立し、真言宗室生寺派の大本山となった。

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門前町も鄙びた雰囲気が心地よい
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境内への入り口となる「太鼓橋」
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朱塗りの橋を渡り終えると「本坊」があり、右手へ折れて「仁王門」へ
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「仁王門」を潜って少し進むと「鎧坂(よろいざか)」と呼ばれる石段となる。変わった名前であるが、坂の上から石段を見下ろすと鎧(よろい)のように重なってみえることから名付けられたらしい。
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登ったところにある「金堂」 
「金堂」平安時代初期<国宝>は正面側面ともに五間の単層寄棟造り柿葺。内陣には堂々とした一木造の御本尊・釈迦如来像(平安初期・国宝)を中心に、向かって右側に薬師如来像(平安初期・重文)、地蔵菩薩像(平安時代・重文)、左側に文殊菩薩像(平安初期・重文)、十一面観音菩薩像(平安初期・国宝)の各像が並び、その前に運慶の作と伝えられる十二神将像(鎌倉時代・重文)が一列に並べられている。本尊の背後の板壁には珍しい帝釈天曼荼羅図(平安初期・国宝)が描かれている。(以上、リーフレットより)
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「金堂」の左側から石段を上り、さらに奥へ進む(登る?)と「本堂」へ行き着く。
静かな佇まいにしばらく見とれてしまった。
「本堂(灌頂堂)」鎌倉時代<国宝>入母屋造、檜皮葺き。桁行5間、梁間5間。室生寺の密教化が進んでいた鎌倉時代後期、延慶元年(1308年)の建立。梁間5間のうち、手前2間を外陣、奥の3間を内陣とする。この堂は灌頂堂(かんじょうどう)とも称され、灌頂という密教儀式を行うための堂である。内陣中央の厨子には如意輪観音坐像(重文)を安置し、その手前左右の壁には両界曼荼羅(金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅)を向かい合わせに掛け、灌頂堂としての形式を保持している。正面は5間とも和様の蔀戸(しとみど)とするが、両側面の前方2間は桟唐戸とする。桟唐戸の使用や、頭貫の木鼻などに大仏様(だいぶつよう)の要素がみられる。(以上、Wikipediaより)
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「本堂」左側からさらに石段を上ったところにある「五重塔」
「五重塔」平安時代初期<国宝> 800年頃の建立で、木部を朱塗りとする。屋外にある木造五重塔としては、法隆寺塔に次ぎわが国で2番目に古く、国宝・重要文化財指定の木造五重塔で屋外にあるものとしては日本最小である。高さは16メートル強、初重は1辺の長さ2.5メートルの小型の塔で、高さは興福寺五重塔の3分の1ほどである。
通常の五重塔は、初重から1番上の5重目へ向けて屋根の出が逓減(次第に小さくなる)されるが、この塔は屋根の逓減率が低く、1重目と5重目の屋根の大きさがあまり変わらない。その他、全体に屋根の出が深く、厚みがあること、屋根勾配が緩いこと、小規模な塔の割に太い柱を使用していることなどが特色である。屋根の大きさが1重目と5重目とで変わらないのに対し、塔身は上へ行くにしたがって細くなり、5重目の一辺は1重目の6割になっている。しかし、斗(ます)、肘木などの組物の大きさは同じなので、5重目では組物と組物の間隔が非常に狭くなっている。側柱(外面の柱)の径は1重目が28センチ、2重目以上が23センチである。日本の他の仏塔では、最上部の九輪の上に「水煙(すいえん)」という飾りが付くが、この塔では水煙の代わりに宝瓶(ほうびょう)と称する壺状のものがあり、その上に八角形の宝蓋(ほうがい)という傘状のものが乗っている珍しい形式である。寺伝では、創建にかかわった僧侶修円がこの宝瓶に室生の竜神を封じ込めたとされる。(以上、Wikipediaより)
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この上に「奥の院」があるが、さすがに上る元気もなく、海外の若い観光客たちが元気いっぱいで降りてくる姿を横目に帰途に就いた次第である。
したがって、「龍穴神社」も寄らずに帰ってきたことは、思い起すと甚だ残念である。
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by iga1008 | 2014-09-19 22:57 | 寺社
2014年 09月 18日

古寺探訪~奈良篇⑤+~「長谷寺」追記

奈良「長谷寺」については今少し書き加えたいことがあるので、ご容赦を・・。

前回の記事および写真でご紹介した、仁王門をくぐって長谷寺に至る長い石段の「登廊(のぼりろう)」の入り口に「諸佛径行所」「諸天神衹在」と書いてある。
この二枚の木板については下記の、長谷寺・化主(けしゅ)であられる加藤精一氏のことばを借りよう。

これは「ここは神様と仏様がおられるところです」という意味だ。
昇っていくと蔵王権現を祀るお堂があり、山上には三社大権現、三部大権現、滝蔵権現、大黒天等々の社やお堂が並び祀られている。本堂内にも稲荷大明神などのお像がある。毎朝のお勤めの次第にも本尊のお観音さまにつづけて諸如来から天照皇大神宮をはじめご縁のある神々、諸神社に向かってお参りする。まさに長谷寺では神さまと仏さまが並んでまつられていながらお互いになんのさまたげにもなっていない。理屈抜きに共存しているのである。<以上、「長谷寺の風格」より引用>

現在日本の神仏混淆について平易にご説明されている。
もともとはこの「長谷寺」の地、初瀬山は古くには天照大神が祀られていた山であり、のちに「伊勢神宮」に移るまではここが日本の神々の総本家であったそうである。
現在見る門前町は初瀬(はせ)川沿いに長く延びている。昔、そこは伊勢参りでも賑わった旧伊勢本街道。歴史も活気もある門前町である。

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by iga1008 | 2014-09-18 11:17 | 寺社
2014年 09月 14日

古寺探訪~奈良篇⑤~「長谷寺」

少し時間が空いてしまったが、また旅に出かけていたものでご容赦を・・。

今回は「古寺探訪」の奈良篇・長谷寺である。なかなか見応えのある寺だ。

「長谷寺(はせでら)」は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山の寺。山号を豊山神楽院と称する。
686年を起源とする。貴族や徳川将軍家の帰依を受けて栄えた。舞台造の本堂(国宝)は17世紀に3代将軍徳川家光公のご寄進により再建された。本尊十一面観音像(重要文化財)は高さ10mを超え、木造の仏像としては日本最大。そのほか、約千点にも及ぶ文化財を所蔵する。
「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多く240寺程存在する。他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。

初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬~5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また『枕草子』『源氏物語』『更級日記』など多くの古典文学にも登場する。中でも『源氏物語』にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。

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「仁王門」
長谷寺の総門で、三間一戸入母屋造本瓦葺の楼門である。両脇には仁王像、楼上に釈迦三尊十六羅漢像を安置する。現在の建物は明治二十七年(1894)の再建。「長谷寺」額字は、後陽成天皇の御宸筆。
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門を潜るとすぐに長い石段(登廊)となる。
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「登廊(のぼりろう)」< 重要文化財>
平安時代の長歴三年(1039)に春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒の御礼に造ったもので、百八間、399段、上中下の三廊に分かれてる。下、中廊は明治二十七年(1894)再建で、風雅な長谷型の灯籠を吊るしている。
下廊
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下廊から右へ折れて登った中廊の上から下を見る。
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中廊から今度は左に折れて登る上廊
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登り切った左手に本堂がある。
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「本堂」< 国宝>
大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に懸造り(舞台造)された南面の大殿堂である。正面(内陣)は桁行(間口)の柱間九間、梁間(奥行)同五間、入母屋造本瓦葺で、また礼堂(外陣)は正堂よりやや低く、桁行九間、梁間四間、正面入母屋造本瓦葺。
現在の本堂は慶安三年(1650)三代将軍徳川家光公の寄進によって再建されたもので、平成16年には国宝に指定されています。
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「礼堂(らいどう)」外陣(げじん)< 国宝>
礼堂の南は外舞台で、そのうち五間に三間をさらに前方へ突き出し、高い擬宝珠高欄をめぐらしています。
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「本堂」西口から。右手が「礼堂」と称される部分。
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外舞台から「本堂」を見る。
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外舞台からは広い境内が見渡せる。
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鐘楼も二階位置にある。
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山の中腹に建てられた寺ということもあって、塔頭回りも石段が巡っている。
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by iga1008 | 2014-09-14 21:03 | 寺社
2014年 09月 03日

古寺探訪~奈良篇④~「東大寺」

奈良というと、ここはもう代表的な観光スポットであろう。

昔、北国の田舎の修学旅行で訪れたのが初めてで、東京圏に移り住んでからも2~3度足を運んでいるところである。
いずれも大仏様が目的であったが、そのときはまだカメラを手にしていなかった。

今回は「撮る」ことが目的で訪れたわけであるが、あいにく拝観時間を過ぎていたにのは甚だ後悔しきりであった。だが、境内と「二月堂」を跳び歩いて久しぶりの「東大寺」をカメラに収めた。

「東大寺」の成り立ちはかなり入り組んでいて、今回もWikipediaの助けを借りることとした。
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東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。

金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。現別当(住職・221世)は、筒井寛昭。
奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられた。
東大寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
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「南大門」<国宝>
天平創建時の門は平安時代に大風で倒壊した。現在の門は鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人(ちょうげんしょうにん)が再建したもので、今はない鎌倉再建の大仏殿の威容を偲ばせる貴重な遺構である。
正治元年(1199)に上棟し、建仁3年(1203)には門内に安置する仁王像とともに竣工した。入母屋造、五間三戸二重門で、ただ下層は天井がなく腰屋根構造となっている。また屋根裏まで達する大円柱18本は、21mにも及び、門の高さは基壇上25.46mもある。大仏殿にふさわしいわが国最大の山門である。(東大寺HPより)
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仁王像二体は、昭和63年から5年間にわたって全面解体修理が行われ、天平創建期から向かい会って立っていたことや、山口県で伐採された木材が、約1年程で搬送され、古文書の記述通り、ほぼ70日間で二体同時進行で、造像されたことも証明された。(同上)
今年は10月6日から12月22日にかけて阿形(あぎょう)像(口を開いている像)を修理することとなっているようで、その間は観ることができなくなるそうである。口を閉じた吽形(うんぎょう)像は来年度に修理するとのことであるが、今回は拝観できてラッキーであった。高さ8mを超す像の修復は大変な作業であろうと思われる。
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「大仏殿」の入り口となる「中門」。<重要文化財>
私同様に遅く来た観光客が鹿と記念写真を撮るのに立て込んでいた。
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「法華堂」(三月堂)<国宝>
東大寺建築のなかで最も古く、寺伝では東大寺創建以前にあった金鍾寺(きんしょうじ)の遺構とされる。752(天平勝宝4)の東大寺山堺四至図(さんかいしいしず)には「羂索堂(けんさくど)」とあり、不空羂索観音を本尊として祀るためのお堂である。旧暦3月に法華会(ほっけえ)が行われるようになり、法華堂、また三月堂ともよばれるようになった。
もとは寄棟(よせむね)造りの正堂(しょうどう)と礼堂(らいどう)が軒を接して建つ配置であったが、鎌倉時代、礼堂を入母屋(いりもや)造りに改築して2棟をつないだ。正堂は天平初期の建築だが、礼堂は大仏様(だいぶつよう)の特色が見られる鎌倉時代の建築。時代の異なる建築が高い技術によって結ばれ、調和の取れた美しい姿を見せる。(東大寺HPより)
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「二月堂」<国宝>
旧暦2月に「お水取り(修二会)」が行われることからこの名がある。二月堂は平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火には焼け残ったが、寛文7年(1667年)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物である。本尊は大観音(おおかんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、どちらも何人も見ることを許されない絶対秘仏である。建物は2005年12月、国宝に指定された。
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「修二会(しゅにえ)」の時にはこの狭い回廊(舞台)を大松明が駆け巡る。
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回廊からの眺め。前方に世界最大の木造建築である「大仏殿」の屋根が見える。
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「修二会」の練行衆が駆け降りる石段。
ここでの入江泰吉氏の逸話が司馬遼太郎氏の「街道をゆく・奈良散歩」に記されているだけに、一層興味津々で見させてもらった。
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by iga1008 | 2014-09-03 21:45 | 寺社