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2014年 10月 03日

古寺探訪~奈良篇⑧~「法隆寺」(雑記)

最後に「法隆寺」雑記を加えたい。

「法隆寺」には「七不思議伝説」がある。

 ①法隆寺にはクモが巣をかけない
 ②南大門の前に鯛石とよばれる大きな石がある
 ③五重塔の上に鎌がささっている
 ④不思議な伏蔵がある
 ⑤法隆寺の蛙には片目がない
 ⑥夢殿の礼盤(僧侶の坐る台)の下に汗をかいている
 ⑦雨だれが穴をあけるべき地面に穴があかない

というのだそうな。これはずいぶん古くからあるそうで、一説には江戸時代からとのことである。

このうち、拝観時にわれわれの目にみえるものだけ撮影してみた。

SONY α57 / TAMRON SP AF17-50mm F/2.8
「南大門」の前の「鯛石」
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「五重塔」相輪に鎌がささっている。(赤丸の部分)
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まあ、いまではそれぞれにそれらしい解釈がされているようであるから詳しく書かないが、ただ私がなんとも不思議だと思ったのは別にあって、金堂と五重塔の前にある「礼拝石」というものである。
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なんでも、僧侶たちが礼拝するのにこの場所からとする位置であるという。
「怨霊封じ」という「中門」の位置づけを考えると、これ以上近付くと危険という場所だったのではないか?と思ってしまう。

あと、これは他寺の裳階(もこし)構造の建物にもみられるので、怨霊説とは関係がないが、五重塔1階部分の「隅鬼」(「邪鬼」(あまのじゃく)ともいう)を撮ってみた。これは東西南北に各1体ある。
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おなじ「五重塔」最上層にある彫刻支柱も一風変わっていて面白い。
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以上で「法隆寺」から退散するとしよう。

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by iga1008 | 2014-10-03 17:52 | 寺社 | Trackback | Comments(2)
2014年 10月 01日

古寺探訪~奈良篇⑧~「法隆寺」(3)

前回の「西院伽藍」につづいて、今日は「東院伽藍」を・・・。

この東院はあらたに奈良時代になってから、かって聖徳太子が住んでいたといわれる斑鳩宮の跡地に建てられたものである。
その中心は「夢殿」であり、聖徳太子の慰霊堂とされている。

ご参考までに法隆寺境内案内図をリーフレットからスキヤナで読み込み貼り付けしてみた。
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SONY α57 / TAMRON SP AF17-50mm F/2.8
東大門(奈良時代)国宝
 大宝蔵院を出て夢殿へ向かう途中に建っているこの門は、珍しい三棟造りという奈良時代を代表する建物の一つです。
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四脚門(鎌倉時代)重要文化財
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夢殿(奈良時代)国宝
西暦 601年に造営された斑鳩宮跡に、行信僧都という高僧が、聖徳太子の遺徳をしのんで、天平11年(739)に建てた伽藍を上宮王院といいます。その中心となる建物がこの夢殿です。八角円堂の中央の厨子には、聖徳太子等身の秘仏「救世(くせ)観音像[飛鳥時代]」を安置し、その周囲には聖観音菩薩像[平安時代]、聖徳太子の孝養像[鎌倉時代]、乾漆の行信僧都像[奈良時代]、平安時代に夢殿の修理をされた道詮律師の塑像[平安時代]なども安置しています。この夢殿は中門を改造した礼堂[鎌倉時代]と廻廊に囲まれ、まさに観音の化身と伝える聖徳太子を供養するための殿堂としてふさわしい神秘的な雰囲気を漂わせています。
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 この夢殿の中心となる仏像「救世観音像」は"秘仏"とされ、施錠された厨子の奥深く木綿布で幾重にも巻かれたまま保存されていたが、明治17年になり明治政府の公認のもと岡倉天心とアメリカの哲学者・フェノロサにより日の目をみたものという。その際にも、寺の僧侶たちは「祟りがある」と云い頑なに開錠を拒んだとあり、強引にフェノロサにより鍵を開けられたときはその場より逃げてしまったそうである。
 この木彫りの仏像は、発見者フェノロサによってモナ・リザに比せられた。口元に不思議な微笑みを浮かべていたからである。

ここまで説明するとどうしても画像を載せなければならないのだが、今回の法隆寺の記事で多大に参考・引用させてもらっている「隠された十字架~法隆寺論」(梅原猛・著)の口絵を借用させてもらうこととした。
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 ((だが、なぜ秘仏とされ、幾重にも木綿布で巻かれて鍵を掛けた厨子の奥へ隠されなければならなかったのかは謎のままである。詩人でもあり彫刻家でもある高村光太郎は「この仏の全体のスタイルは人のいふ通り北魏の様式を忠実に踏襲してゐて、釣合といひ衣紋のひだといひその左右斉整といひ、殆ど公式に従った抽象的形態を持ってゐるのであるが、首がまるで違ふ。顔面となると、ガンタラ系統の様式がどこにもなく、ただアーカイックな、ナイーブな人面がそこにある。」(『高村光太郎選集6』)と批評しているようで、この顔の部分は聖徳太子であるとの意見は定説化している。そして、この仏像をこしらえた仏師については「この仏師造り畢(おわ)りて、久しからずして死に畢る。その所以を知らざるの者なり」(『聖徳太子伝私記』法隆寺僧・顕真著)と記録があるそうで、いよいよ謎めいている。))
東院鐘楼(鎌倉時代)国宝
 この鐘楼は袴腰(はかまごし)と呼ばれる形式の建物で、内部には「中宮寺」と陰刻された奈良時代の梵鐘が吊るされています。
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by iga1008 | 2014-10-01 19:18 | 寺社 | Trackback | Comments(0)
2014年 09月 28日

古寺探訪~奈良篇⑧~「法隆寺」(2)

さて、いよいよ本題に入るわけであるが、記事が込み入ってお見苦しい点はご容赦願いたい。
ご興味のあるかたのみご一読を・・・。(笑)

「聖徳宗総本山 法隆寺」 世界最古の木造建築であり、日本の"世界遺産第一号"として知られている。

 仏教伝来は宣下3年(538)百済の聖明王より仏像・経論が贈られた年とされているが、別に欽明13年(552)とする説もある。
そして聖徳太子が生まれたと伝えられるのは敏達3年(574)。本名は厩戸(うまやど・うまやと)であり、厩戸の前で出生したことによるとの伝説がある。父親はその後用明天皇となり、太子は第二皇子として「厩戸皇子」と呼ばれていた。推古30年(622)、四十九歳にて歿している。なお、聖徳太子という呼称は生前にはなく、没後100年以上を経て天平勝宝3年(751)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる。

 推古元年(593)に摂政となり、翌年「仏教興隆の詔」を発しているように仏教を広めることに力を注いだようである。これは母方の蘇我氏の影響があったためもあるだろうと思われる。そして、このことが後年(太子の死後)蘇我氏と対立関係にあった中臣氏(当時の仏教排斥派(?)。のちに藤原氏となる)の力が強まるにつれ、蘇我氏・太子子孫の抹殺といった歴史を形成する原点でもあったように思われる。この時代は神と仏は厳然として背反するものであったとは想像に難くない。

 ともあれ、想像するしかない時代のことなのでいささかの決意をもって、ここは「法隆寺略縁起」という法隆寺の発行するリーフレットを中心に画像の説明文を構成してみた。(簡単に言うと「ですます調」の文章はすべてリーフレットから引用である) さらに(( ))で閉じた添え書きは、「隠された十字架~法隆寺論」(梅原猛・著)から引用した部分を含んでいる。

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法隆寺
 法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築として広く知られています。その創建の由来は「金堂」の東の間に安置されている「薬師如来像」の光背銘や「法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳」(747)の縁起文によって知ることができます。
 それによりますと、用明天皇が自らのご病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願されましたが、その実現を見ないままに崩御されたといいます。そこで推古天皇と聖徳太子が用明天皇の ご遺願を継いで、推古15年(607)に 寺とその本尊「薬師如来」を造られたのが この法隆寺(斑鳩寺とも呼ばれています)であると伝えられています。
 現在、法隆寺は塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられています。広さ約18万7000平方メートルの境内には、飛鳥時代を始めとする各時代の粋を集めた建築物が軒を連ね、たくさんの宝物類が伝来しています。国宝・重要文化財に指定されたものだけでも約190件、点数にして2300余点に及んでいます。
 このように法隆寺は聖徳太子が建立された寺院として、1400年に及ぶ輝かしい伝統を今に誇り、特に1993年12月には、ユネスコの世界文化遺産のリストに日本で初めて登録されるなど、世界的な仏教文化の宝庫として人々の注目を集めています。(以上、リーフレットより)

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ここでも少し書き加えるが、太子の時代に建てられた法隆寺は天智9年(670)に全焼したというのが現在の見方で、現存する法隆寺は太子の歿後100年ほどして和銅4年(711)に再建が成ったものとされる。この再建年度には政権の中枢に太子の後裔も蘇我氏もおらず藤原氏(中臣氏)が掌握しており、そのことがこの法隆寺という古寺のなりたちに謎の多い部分を加えたようである。

SONY α57 / TAMRON SP AF17-50mmF/2.8

南大門(室町時代)国宝
 法隆寺の玄関にあたるこの門は、永享10年(1438)に再建されたものです。
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南大門をまっすぐ進んで中門に着く。中門は立ち入り禁止である。
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中門及び廻廊(飛鳥時代)国宝
 深く覆いかぶさった軒。その下の組物や勾欄、それを支えるエンタシスの柱、いずれも飛鳥建築の粋を集めたものです。重厚な扉と左右に建つ塑像の金剛力士像[奈良時代]は、東西に延びた廻廊の連子窓と対照的な組み合わせで、並列して建つ塔と金堂を壮麗に包み込んでいます。
((この「中門」の真ん中にある柱と間口が四間という忌数であることについては謎とされており、一説には怨霊を封じ込めるための構造とする、すなわち法隆寺そのものの再建が聖徳太子の霊を封じ込めるためとの説を想起させる要因となっている。))
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門前にある平山郁夫氏筆になる石碑
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仁王像(奈良時代)重要文化財
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廻廊と連子窓(飛鳥時代)国宝
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金堂(飛鳥時代)国宝
 法隆寺のご本尊を安置する聖なる殿堂が金堂です。威風堂々としたこの建物の中には、聖徳太子のために造られた金銅釈迦三尊像[飛鳥時代]、太子の父君用明天皇のために造られた金銅薬師如来坐像[飛鳥時代]、母君穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后のために造られた金銅阿弥陀如来坐像[鎌倉時代]、それを守護するように、樟(くす)で造られたわが国最古の四天王像[白鳳時代]が邪鬼の背に静かに立っています。そのほか木造吉祥天立像・毘沙門天立像[平安時代]が安置されています。
 また天井には、天人と鳳凰が飛び交う西域色豊かな天蓋が吊され、周囲の壁面には、世界的に有名な壁画(昭和24年焼損、現在はパネルに画かれた再現壁画がはめ込まれています)が描かれ、創建当時初の美しさが偲ばれます。
((ここの仏像、なかでも釈迦三尊像の釈迦・薬師如来坐像についてはさまざまな疑問が提起されているようである。すなわち、顔だちが二体とも似すぎている、如来像にしては服装や装飾が特異であるなどのことから起こる「仏像=聖徳太子」という説がある。ようするに釈迦像ではなく、正徳太子像だという説である。阿弥陀如来像は盗難にあって鎌倉時代にあらたに鋳造されたものであるので言及されていない。だが、「聖徳太子伝私記」という法隆寺僧顕真の著(暦仁1年(1238)著)に、「須弥壇の阿弥陀三尊像は間人皇女・聖徳太子・高橋妃の御本体ゆえ、もっとも根本の尊像なり」という文言もあるようだ。))
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五重塔(飛鳥時代)国宝
 塔はストゥーパともいわれ、釈尊の遺骨を奉安するためのものであり、仏教寺院において最も重要な建物とされています。高さは約32.5メートル(基壇上より)で、わが国最古の五重塔として知られています。
 この最下層の内陣には、奈良時代のはじめに造られた塑像群があり、東面は維摩居士と文殊菩薩が問答、北面は釈尊が入滅、西面は釈尊遺骨(舎利)の分割、南面は弥勒菩薩の説法などの場面が表現されています。
((この五重塔についても、上述の「聖徳太子伝私記」には「この塔の心柱の本には、仏舎利六粒・髻髭(もとどりひげ)六毛を納籠たり、六道衆生の利するの相を表す」とあるそうで、もちろん釈迦には髻も髭(髪やひげ)もない。これはやはり聖徳太子のものであろうと考えることは我々も理解できる。とすると舎利(骨)もやはり・・・となる。))
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金堂と五重塔を別アングルで
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大講堂(平安時代)国宝
 このお堂は仏教の学問を研鑽したり、法要を行う施設として建立されましたが、鐘楼とともに延長3年(925)に落雷によって焼失しました。幸い正暦元年(990)には再建され、ご本尊の薬師三尊像及び四天王像もその時に造られています。
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以上、法隆寺「西院伽藍」より。次回は「東院伽藍」を・・。

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by iga1008 | 2014-09-28 18:14 | 寺社 | Trackback | Comments(2)
2014年 09月 24日

古寺探訪~奈良篇⑧~「法隆寺」(1)

奈良の古寺といえば、真っ先に思い浮かぶであろう寺が「法隆寺」であろう。
北国の小都市に生まれた私でも、この寺の名前はすぐに覚えた。それほど有名な寺である。

だがしかし、曲がりなりにも拙ブログに採用するとなっていささか混迷に陥っている。
理由は旅から帰ってから読んだ、「隠された十字架~法隆寺論~」(梅原猛・著)が主たる理由であるが、他にも類似の法隆寺説の存在に惑わされ続けているためである。
たとえば、法隆寺の創建年度や再建か非再建かなどについてさえ、日本の代表的な学者たちが激論を交わしつつ確定に至っていないようだ。古代の記録である「日本書紀」「古事記」などにも相違があって判断の材料とはならないとは困ったことである。これ以外にもあるが次回からの記事に書き添えてみたい。

ここは昔に戻って
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」 の世界にひたることが一番であろう。

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昔、「鏡池」ほとりにあった茶店跡に建つ歌碑
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その位置から正岡子規が見たであろう法隆寺の光景を撮ってみた
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「隠された十字架~法隆寺論~」(梅原猛・著)より引用
 先日のことである。私は久しぶりに、私の処女作「仏像-心とかたち」の共著者である、前の大阪博物館館長の望月信成先生におあいした。私は法隆寺についてのある仮説に夢中になっていた。望月先生におあいしたときも、法隆寺のことをたずねた。すると先生はいわれた。
「梅原さん。法隆寺はむつかしいです。五十年研究していてもさっぱり分からない。そして、この法隆寺という寺は、後からいろいろな事実が発見されれば発見されるほど分からなくなる不思議な寺です」
 たしかに望月先生のいわれる通りである。法隆寺にかんする多くの参考書を読むがよい。すべて何だかよく分からない。だいいち、この寺の建造年代についても諸説紛々、収拾するところを知らない。分からないものがいっぱいある。その分からないところがまた法隆寺の魅力でもある。
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by iga1008 | 2014-09-24 20:30 | 寺社 | Trackback | Comments(2)