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2014年 08月 31日

古寺探訪~奈良篇③~「興福寺」と奈良公園

前回までのブログで主として京都から西日本の地域への旅を続けてきたが、やはり主目的は「古の日本の文化」を肌で感じたいと言ったところであろうか。
北国生まれの身としては、伝え聞いてきた歴史に裏付けられた土地や建物を実際に体感できることは甚だ興奮する旅であった。

尊敬する司馬遼太郎氏の言によると「われわれが持続してきた文化というのは、弥生式時代に出発して室町で開花し、江戸期で固定して、明治後崩壊を続け、昭和40年前後にほぼ滅びた」そうである。
数少ない文化の残存物としての寺社は、したがって古の文化に触れることのできる貴重なものと言える。
それにつけても、明治期の廃仏毀釈のムーブメントにより、数多くの仏寺や仏像が取り壊されたりまた売りに出されたりしたことは返す返すも残念なことだ。

今回の奈良行は、この事件によって大きな変遷を辿らざるを得なかった「興福寺」を見てみたかったからともいえる。

「法相宗大本山・興福寺」(HPより引用) ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
法相宗の大本山として知られる興福寺。その前身は飛鳥の「厩坂寺」であり、さらにさかのぼると天智朝の山背国「山階寺」が起源となります。
その山階寺は、天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である鏡女王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられており、この名称は後世においても興福寺の別称として使われています。
その後、壬申の乱(672)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、その地名を取って厩坂寺とされました。
さらに、平城遷都の際、和銅3年(710)藤原不比等の計画によって移されるとともに、「興福寺」と名付けられたのです。
天皇や皇后、また藤原氏の人々の手によって次々に堂塔が建てられ整備が進められ、奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますますさかんになります。
平安時代には春日社の実権を手中におさめ、大和国を領するほどになり、また、鎌倉・室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たりました。
文禄4年(1595)の検地で春日社興福寺合体の知行として2万1千余石と定められ、徳川政権下においてもその面目は保たれました。
その後、明治時代はじめの神仏分離令、廃仏毀釈、社寺上地令などで興福寺は荒れましたが、その後は寺僧有縁の人々の努力で復興が進展し新たな興福寺としてその歴史を刻み続けています。


SONY α57 / TAMRON SP AF17-50mm F/2.8
「興福寺」の伽藍で残る最古の建物「北円堂」。鎌倉時代。<国宝><世界遺産>
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奈良の風景を代表する「五重塔」。天平2年(730)創建であるが、現存のものは応永33年(1426)頃に再建されたもの。<国宝><世界遺産>
明治初期の「廃仏毀釈」により、当時の価格で25円で売りに出されたのは有名である。
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「奈良公園」を少し歩いてみた。
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公園内は池も多く、これは鷺池と浮見堂。
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猿沢池と興福寺五重塔
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そして、ここ「奈良ホテル」もかっては興福寺の大乗院が存在した場所に建つ。
明治42年(1909)に建てられ、終戦後は米軍に接収されていた時期もある。
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奈良ホテルのすぐそばに「大乗院庭園」が残されている。
奈良ホテルの宿泊客には無料の入園券がサービスされていたが、時間の関係で外柵から撮影することにした。
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さらにここで「廃仏毀釈」についてWikipediaから引用 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
一般に「廃仏毀釈」と言えば、日本において明治維新後に成立した新政府が慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発した太政官布告(通称神仏分離令、神仏判然令)、明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの政策によって引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。

神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた。神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などが見られた。1871年(明治4年)正月5日付太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。

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このとき、「興福寺」の僧侶たちは「春日大社」の神職にさせられ、「興福寺」は廃寺同然になった。
往時は東大寺を凌ぎ175もの堂塔伽藍のあらかたが破棄され、現在は国宝に指定されている五重塔は、25円[当時]で売りに出され、薪にされようとしていたのである。

その後、明治政府は廃仏毀釈をひっこめ、明治15年には、逆に古社寺を保存するための「古社寺保存金制度」を実施。さらに明治22年、興福寺跡を含めて広大な「奈良県立公園」が設立された。
われわれが、芝生と松林の静まりのなかで、国宝興福寺五重塔の下を過ぎてゆく幸福を得るようになるのは、明治政府が正気を取り戻したおかげである。
考えてみれば、日本における狂信的な国粋主義が、国家と国民に禍害以外のものをもたらしたことがあるだろうか。(以上は、司馬遼太郎「街道をゆく・奈良散歩」より抜粋引用)

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by iga1008 | 2014-08-31 23:04 | 寺社


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